震災5年目の小高で気づいた「普通の幸せ」

2016年9月14日

今年で震災から5年が経ちます。私たちは、被災地を自分の目で見て学びたいという気持ちから3月末に福島県を訪れました。被災地に足を運んだからこそ分かったことがたくさんありました。この記事を読んでくださった方が震災についてもう一度考えてくれたら嬉しいです。
 
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※小高地区は浪江町の北に位置する地区。
 
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今回取り上げるのは、今も規制がある原発半径 20 キロ圏内でお会いした、久米さんです。久米さんは震災当時、小高地区に住んでいましたが原発事故の影響で福島市に避難をされていました。自分は「普通の主婦」だと言う久米さん。そんな普通の住民だった久米さんの視点から、震災当時のリアルな現状、被災地への想いなどを聞くことができました。
 
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久米静香さん
震災当時は、原発の半径20キロ圏内に在住。震災後は、原発事故のため福島市に避難をされていました。南相馬市小高区にあるNPO法人「浮船の里」理事長。
 
今は本当に普通の主婦です。未だにNPOの「N」も知らない。助成金って言われても、申請書を書くだけでも大変っていうくらいです。普通のおばさんだったし、普通のお母さんだったんだけど、この震災でちょっと私も変わったんです。
今は普通に生活をしているけれど、「原発避難民」という名前がついています。お家があるけれども、毎日はお家に戻れない。今はある程度住んで良いと言われているんですけど、きちんと行政に申請してここに住んでいます。
 

小高に住みたい!「自分の家って本当にいいの。」

 
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自分が病気をして入院した時に、「あ、私小高に帰りたい」って思ったんです。
自分の家って本当にいいの!何もなくても落ち着くの。私は仮設じゃなくて、借上げっていうところにいたんですけども、よその家なんだよね。だからお掃除したってつまらない。料理もできない。自分の家だったら、何もなくても台所に立てば何か作れる。
もう放射線を何ミリ浴びてようが、なにしようが、小高に住みたいって思いました。だから、小高に住みたいって思った時から線量計は持たなくなったんです。小高のものを食べたいって思った時から線量を気にするのはやめました。
 

震災を通してわかった幸せ。

 
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原発に賛成、反対っていつも聞かれます。でも私たちは東京電力や原発で生活が成り立ってたところもあるんですね。子供たちを大学に行かせることもできた。だから、それに対して賛成、反対は述べられないですね。
 
でも今言えることは、人間が作ったものでコントロール出来ないものがある。何が起きているのか分からないものがある。そう考えたらやっぱり反対だよね、とは思います。これは私が、普通のおばさんでお母さんだから。どうしても子供のことを思ったら、そう考えてしまう。
 
私の娘家族は小高区に戻らない選択をしました。私はそれに対して「良かったね」って言いました。孫たちには普通の生活をしてほしいから。
でも私は戻るという選択をしました。今後悔していることは、震災当時私たちは「小高は汚い、汚れた」って言いながら逃げて、子供たちの中での小高のイメージが恐ろしいものになってしまったこと。孫たちは、小高は怖い、ばあばの家はもう忘れたって言ってるんです。
 
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震災を通して思ったのは、普通の生活ってお金で買えないってことかな。被災地を見てかわいそうって思う必要はないんですよ。私たちは意外と幸せに暮らしています。だからテレビに映るような頑張っている人ではないし、かわいそうな人でもない。
ここを見て、いかに自分が今置かれている状況が幸せかを感じてほしい。その普通が、一番幸せでめぐまれているって。
 
 

「被災者」だから、「避難者」だからと言って、みんなが同じ状況にいるわけではなく、今は楽しく暮らせている人もいるし、まだ震災から立ち直れていない人もいる。大切なのはすべての人をひとくくりにせずに今の被災地をみることだと思いました。「普通の生活はお金では買えない」という言葉を聞き、今の自分の生活がとても恵まれていると気づくことができてよかったです。具体的なことをするのは難しいけれど、被災地を見に行くだけでも何かの一歩になると思いました。

ゆき

さき

音楽と料理が好きです!もっと積極的になれるように頑張ります‼