あの時何が起きていたのか、今何が起きているのか。原発事故と放射能から読み解くフクシマの過去と現在。

2016年9月7日

フクシマを語るうえで『原発事故と放射能』というワードを外すことは出来ません。
今回はそんな『原発事故と放射能』について三人の方がお話してくださったことを、『原発からの避難』『フクシマの放射能』『除染とフレコンバック』この三つの視点に分けて紹介していきたいと思います。
「今、フクシマで何が起きているのか。あの時、フクシマで何が起きてしまったのか。」
ひとつひとつを紐解いてゆきたいと思います。
 

あの時、一体何が起きていたのか。福島で起こっていたこと。

 
IMG_5563
 
最初のキーワードは「原発からの避難」です。震災事故当時、原発事故現場周辺の広い地域に住まわれる多くの方が避難されました。実に8万人近くにも及ぶ方々が一斉に避難されたそうです。しかしなぜ、そんなに多くの方を一斉に避難させることが出来たのでしょうか。その理由は民間のバス会社の懸命の取り組みにありました。
当時、避難される方々の運送の多くを民間のバス会社さんが担っていました。
今回我々のスタディーツアーへ添乗員として同行してくださった、福島交通の支倉文江さんも避難へ従事した方の一人でした。
 
IMG_5465
 
支倉さん:
3月12日の朝6時、大熊町と双葉町の住民の方をバスに乗せ、西へ向かいました。でも指示された場所に行ってもそこはもう一杯で入れないんです。その次に指示された場所もやはり入れない。この繰り返しで情報が錯綜していました。
 
支倉さんの話はただただ驚きと不安にあふれた当時の様子を物語っています。
私たちは今回、避難指示区域の一か所である浪江町を訪れました。避難時の様子を浪江町の職員、横山芳幸さんからお聞きすることが出来ました。
 
IMG_5677
 
横山さん:
12日の朝、我々職員が住民の方に「ご飯をふるまう」という時にいきなり白い服を着た警察官が来て、「避難しなさい、逃げなさい」ってバスへ乗せられて、ほとんど何も持たないままみんな避難しました。その時はどうせすぐ帰れるだろうと思っていたので、みなさん荷物も少ししか持ってきていなかったんです。
 
あの時、浪江町をはじめとした避難指示区域では現実とは思えないような光景が現実に起きていたことがよく分かります。私達には到底感じえることのできない恐怖がそこに広がり、存在していた。とても重く衝撃的な事実でした。
 
そのあまりの混乱に私は思わず、「本当にこれが日本で起きたことなのか」と呆然としてしました。しかしまぎれもなくそれは福島で起きた事実。原発事故という未曽有の災害に直面した当時の人々の焦りと困惑をただただ感じます。
 

未だ放射能の影響が残る、帰還困難区域。

 
IMG_5715
 
今回の震災で多くの方が避難した避難指示区域というのは三つの区域に分かれています。一番放射線量が低いのが「避難指示解除準備区域」、次に低いのが「居住制限区域」、一番放射線が高いのが「帰還困難区域」です。浪江町は大多数の地域が「帰宅困難区域」に指定され、私たちが今回訪れた沿岸部などは「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」に指定されています。
 
現在は政府や原発関係者の方の尽力で原子力発電所の事故も徐々に収まり、じつに5年もの歳月を経て2016年7月1日現在、川内村、葛尾村など一部の区域から避難解除が行われるまでになりました。飯舘村も現在帰還時期に関して議論されており来年の3月末をめどに帰還するのでは言われています。
しかしまだまだ原発事故は完全に収束しているわけではありません。上記のようにまだまだ「帰宅困難区域」は数多く存在しています。では実際放射能とはどういったものなのか、そして福島ではどう捉えられているか。今度はそんな「フクシマの放射能」について紹介していこうと思います。
 
今回私たちに放射能やその影響についてお話ししてくださったのは、今回のスタディーツアーの主催であり福島県内にて復興事業に携わる加藤裕介さんです。
 
加藤さん:
原子力発電所で作業している空間は今、ほとんどが数十マイクロシーベルト毎時(μSv/h)。すごい放射線量が高いところでも200マイクロシーベルト毎時(μSv/h)。しかしこういう所はめったに作業員の人は入りません。入ったとしても長時間に渡ることはありません。なので、即死する値を福島県で浴びるということはあり得ないんです。
でも長期的に考えた際、いくら小さいといえ浴び続けたら場合どうなるのかというと、それはまだ結論が出ていないんです。30年経つまで、分からない。医師や研究者の中での見解としては今県内に住んでいて避難指示区域内以外で放射線を浴びて人体に影響があることはまずないだろうと言われています。それが科学的に現在いえることの限界です。影響がないことを科学的に言うことは難しいので影響がないことを証明するのは時間がかかると思います。
現在、政府は年間1ミリシーベルト(mSv)の積算被ばく量まで抑えるという目標を掲げています。年間1ミリシーベルト(mSv)浴びるというのが一時間あたりにすると0.23マイクロシーベルト毎時(μSv/h)ということになります。
※気中の放射線の量はシーベルト(Sv)という値で表します。人体に与える一時間当たりの放射線量を表すことが出来るのがシーベルト毎時(Sv/h)という値の特徴です。一度に100ミリシーベルト(mSv )以上浴びると人体に影響が出るといわれています。
 
参加者:今後放射能は基本的には問題ないっていう風になっていると思うんですが、今住んでいる人たちは放射線に対して、数値として出ているから安全だなって思っているのか、それとも危険だなって思いながら住んでいるのか、どっちの方が多いですか?
 
加藤さん:
誤解を恐れずに言うと、正直分かりません。ある程度怖いなって思っている人はすでに福島県から出ているので、福島県に住んでいる人はある程度納得して住んでいるっていう考え方もできますが、ただ避難したくてもいろいろな事情でできなかったっていう人もいますから。
その反面諦めてしまっている人もいます。怖いと思っていても言えない人、怖いと思っていること自体につかれた人、そもそも何も気にしていない人、色々な人がいるので一括りにはできません。
 
放射能に関してまだまだ分からないことが多い、そのことがお話を聞いていてとても印象に残りました。福島に住む多くの方が自らの考えや思いを持ち今現在生活をしている、とても深く考えさせられました。
 
IMG_5697
 
現在福島の抱える大きな問題の一つとして除染により、大量に発生する放射性廃棄物(これを詰める黒い袋の名前からフレコンバックと呼ばれています)の処理と保管があります。
冒頭でお話を紹介させていただいた支倉文江さんは昨年、自宅の除染をしました。
 
支倉さん:
昨年の一月に家の除染がありました。庭の表土5センチくらいを剥いで、屋根と外壁とか全部高圧洗浄機で除染をしました。除染で出た汚染土とかは福島市内に仮置き場がほぼない状態なので集めたものを箱に入れてそれを積み上げて、その周りに土嚢を積んでシートをかぶせて自宅の後ろに置いてあります。
 
家の後ろに放射能汚染されたものが積まれている、福島では自然なことかもしれませんが僕にとっては驚きの事実です。
本来、フレコンバックは中間貯蔵施設という施設で集めて保管することになっています。しかし現状は必要な量の3%しか完成しておらず、支倉さんのように自宅での除染で発生したフレコンバックを自宅で保管されている方がほとんどだそうです。また飯舘村や浪江町など避難指示区域でもいたるところにフレコンバックの黒い袋が山積みにされていました、当初フレコンバックは三段以上積み上げませんと明言していたものの、現在は五段積み上がっています。避難指示区域内では除染が終わっている地区もあるなど、除染は進んでいます。しかし保管する場所がないので、その場に山積み。今回福島を訪れてこの様子をいたるところで見ました。
 
フレコンバックは小学校にも存在するそうです。小学校の校庭などはいち早く除染されたそうですが、そのフレコンバックをしまう施設がなく、しかたなく校庭に穴を掘って真ん中に埋めているそうです。本来三年の約束でそうした措置を取っていたそうですが既に五年が立ってしまいました。
フレコンバック周辺の放射線量は特段高いものではないそうです。しかし家の裏や学校の校庭に黒い袋がいっぱい存在するというのは決して心地の良いものではありません。もし仮に私が同じ立場に置かれてもやはり嫌です。いくら安全と言われても安心は中々できないと思います。
 
IMG_5700
 
今回福島を訪れるまで、避難時の様子やフレコンバックの問題、放射能に対する考え方などを全くといっていいほど知りませんでした。それは私が無知だからだということもあります。しかしテレビや新聞などでは知られていない部分がまだまだ多くあることを今回知ることが出来ました。
今回紹介させていただいた内容は「原発事故と放射能」に関することの一部です。まだまだ紹介し足りない部分や、今回は直接お話を聞くことのなかった問題や話題がまだまだあります。知られることの少ない問題が多く存在しています。だからこそ今回私たちの見て知って感じたことを、同世代の多くの人に知ってもらいたいと私は思います。
とにかく知ってほしい、心から切にそう願います。