大人ってなんだろう。高校在学中は、常にその問いが頭の中に存在していた。高校の先生は、何度も私たちに「高校を卒業したら、あなたたちは立派な大人になります。」と言った。そのたびに私は、大人とは一体なんなのかと疑問に感じた。ましてや「立派な大人」とは、どんな人間なんだろう。
大人なんてネガティブな存在でしかなかった
私は中学生の頃から、大人という存在に対してネガティブな感情を抱いていた。狭い空間で生きていた私にとって「大人」と言われるような人は、親以外では学校の先生しかいなかった。彼らの生活は、中学生だった私の目には澱んで見えた。
しかし、高校生になって様々なことを経験するようになると、それに伴って、接する大人も多様になっていく。多様な信条やライフスタイルを持った大人たちと関わることは、とても刺激的で、その中には、これこそが私の理想の大人だと直感的に感じる人もいれば、反面教師のような人もいた。
中高生の頃は、大人になんてなりたくなかった。子どもでいた方が、大人でいるよりもずっと自由で、楽しいと思っていたからだ。高校生活はとにかく楽しかった。自分で決断しなくとも、楽しいことが次々と起こっていく。
それはまるでジェットコースターのようなものだ。私たちは友達とトロッコに乗り、決められたレールの上を激しく揺られながら進み、作られた仕掛けに魅了される。そこに自分たちの意思はない。どの方向に進むかを自分で決めることはできない。不自由でありながら、しかし自分の頭で考えなくても楽しいことが起きるのは楽だから、そんな環境に心地よささえ覚えるようになる。
ふと気づいた。まだジェットコースターに揺られている大人も、この世にはたくさんいるのではないだろうか。
決められたレールから外れたその先
私は、そろそろトロッコから出たい。今ならジェットコースターよりも楽しいことがあるとわかるからだ。そのことを、かっこいい大人たちが教えてくれたのだ。彼らはまるでジャングルを突き進む冒険家だ。ジャングルの中で自分が生きる意義を自分で見出していく。常に感覚を研ぎ澄まし、本能から答えを導く。自分を盲信する。信頼する仲間がいながらも、どこか孤独で、生きるために、また大切なものを守るために必死で何かと戦う。彼らは自由で、不安と共存し、決断することを恐れない、というよりむしろ決断なしに生き抜くことはできない。だからこそ生命力に溢れ、輝いていて、力強い。
私たちは本能的に種として強いものを求めると聞いたことがあるが、だからこそ私たちはそういう人間に魅力を感じるのかもしれない。幸せなことに私の周りには、そんな「立派な大人」がたくさんいる。とにかく、私もそんな人間になりたい。
私はこれから大学生になる。「学生」は可能性が無限だと言われる。何にでもなれる、と。でも、その言葉に踊らされて、自分はいつか何者かになれるのだと自惚れつづけ、結局何者にもなれないというオチは嫌だ。選択していくのは怖い。自分の可能性が狭められるような気がするし、選んだ道以外で、もっと自分にとって良い選択肢があるのかもしれないという期待感が、決断を阻む。それでも私はジャングルに足を踏み入れたい。何者であるかと尋ねられたら、胸を張って自分の存在の定義を答えられるようになりたい。
この文章を読んでいるあなたは、一体何者であるのか。もしこの問いに答えられないのならば、ジャングルに足を踏み入れてみようではないか。