まなぶ

2016年9月23日

福島での体験について、私は未だ自分の思いがまとまっていない。自分なりに必死になってなんとかまとめようとするが、私の心と頭の中には様々な感情が渦巻く。そして体験した事実を頭では理解したつもりでも心の中では「何故なんだ」という考えが出てきてしまう。それ故に、この文章は事実を記述した部分が多くあると思うが、ご容赦願いたい。
 
3月28日、我々は朝7時半に東京を出発し正午頃に福島県二本松市へと入った。そして二本松市から浪江町へと向かう。そう、原発や津波の爪痕が今なお色濃く残る場所だ。二本松市から浪江町までは本来、今回よりも早く到着することが出来るのだが、原発事故以降浪江町の一部が避難区域の中でも最もレベルの高い「帰還困難区域」に指定さえており交通の往来が厳しく制限されているため、迂回しなければならないのだ。この時私は、ようやく原発事故というもの影響を肌で感じられたように思えた。そして、原発事故の影響を受ける福島へ来たことに。
二本松市から南相馬市を経由するルートでは、途中に飯舘村を通過する。飯舘村も村内全域が避難区域になっているのだが、ここは大半部が居住解除区域という3段階のうち2番段階目のレベルだそうで、交通往来はできるそうだ。そして3段階の中、帰還困難区域以外での避難区域では防護服等の装備も必要なく交通の往来も自由で、昼間の間のみ復興作業者や理由があるものは滞在ができるのだと言う。私はこの時大変驚いた。というのも、私の中での避難区域というもののイメージはどこも防護服が必要で、簡単に入ることが出来ないというイメージであったからだ。実際、今回の体験に当たっては避難区域に入るための許可状のようなものを申請したこともあり、そのイメージはとても強かった。しかし実際は車の往来は盛んで、防護服の様な物々しい格好の人もおらず、いたって一般的な地方村の風景が広がっていた。しかしバスの中にある線量計の数値は二本松市内の時とは異なり上がっていた。この時に私は、ここが避難区域であり原発の影響が色濃くある場なのだということ改めて痛感せざるおえなかった。
それから1時間ほどで浪江町に到着した。浪江町へ入る際は厳重な検問を通過して行く。この物々しい雰囲気に緊張感を感じると共に、この先に待ちうけている現状に身構える思いであった。
 
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検問を抜け、のどかな道を進んでいると、浪江町の中心部へと進んでいったのだが、街の様子に私は少し驚いた。浪江町の中心部は飯舘村同様に「避難指示区域」であるため、交通の往来は可能なのだが、それ以上に街の中は多くの車が行き交い、信号も機能していて、そして多くの除染作業員の方や建築関係の方が作業をされていた。本来は何ら驚くようなことでもないのだが、前記した様に私は考えていたため、やはりここでも同じ感情を繰り返してしまったのだ。後で思えば、こうした感情が私の中に存在していたということは、私の中にはある種の偏見が存在していたのだと思う。それは福島という場所のことを理解していない無知によるもののせいかもしれない。しかしそれ以上に現実を理解しようとせずに今までいたことは事実であり、それにより偏見を形成してしまったことは事実なのだ。自分に対し強い憤りを感じる。
 
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浪江町を訪れた私たちは町役場へと向かい、そこからは浪江町役場職員の横山さんに町内の案内をしていただけることとなっていた。一度休憩のために役場へバスを止め、車外へ出られることになったのだが、この時私は一瞬戸惑ってしまったのだった。それは自分の中の偏見が作用し、「外に出ても平気なのだろうか」「マスクをしなくてもよいのだろうか」という考えが頭の中を廻ったためだった。だが私は決意し外へ出た。するとどうだろう、そこにある空気は私の住んでいる所の空気と全く同じものであったのだった、むしろ横浜よりも美味しい空気のようにさえも思えた。そしてそこに広がっている空は広々と青くなんら他と変わることのない空であり、綺麗に咲き誇った梅の花が僅かに空を明るくしていた。この時私は深く自分の偏見を悔やみ懺悔の念を抱いた。同時に今まで抱いていた偏見を捨て、更な五感で感じられた瞬間でもあった。もっともその時は恥ずかしさと申し訳のなさだけを感じていたために言葉へ表すことができなかった。それ故今だから言葉に表すことが出来るのだろう。
 
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それから我々は横山さんの案内で、津波の影響を受けた沿岸部へと向かった。中心部から沿岸部へと進んでゆくと徐々に広い荒野が広がっていく。しかし待てどもその景色は変わることなく、徐々に遠くの方へ海が見えてきた。そして一軒の家が見えてきたころ、横山さんが次のように話された。「この辺りの場所はすべて津波により流された場所で、震災前は何件もの家が肩を寄せ合いながら立ち並ぶ漁村の集落でした。」それを聞き終えると同時に私の頭の中は一気に思考が停止してしまい、唯々頭の中には疑問符であふれていたのだ。私の目の前には唯々広い荒野が広がっているだけである。津波の影響を受けたであろう建物が辛うじて幾つか存在し、津波の被害を受けた場であるということはおぼろげながらもなんとか理解できそうではあった。しかしこの場所が以前集落であったということは想像することおろか、到底理解できることではなかったのだ。いくらどう考えても想像すらつかない、実際に今こうして回想をしていても想像することはできていない。私は言葉を失ってしまった。しかしその後経験したことは更に衝撃的なものであり、この時を上回るものであった。
 
沿岸部へと来た我々は、ある場所でバスを降りある場所を見学することとなった。それは請戸小学校という学校だ。請戸小学校は津波に飲み込まれ1階部分は壊滅的な状態になったものの現存し続け、今なお校内へと入ることのできる場所だ。請戸小学校は2階建てだ。校庭は広く校門とは反対の場所にある。しかし我々は今回、校庭の方から校舎内へと入った。というのも1階部分は津波により、窓ガラスも窓も無くどこからでも入れるような状態であったからだ。校庭側から校舎へと徐々に近づいてゆくにつれて、私は一切の言葉も周りのことを見る余裕すらも失いかけつつあった。いざ校舎の中へ入ってみると、そこには言葉に表現できないほどの光景が広がっていた。最初に足を踏み入れた教室は一般教室であったのか、黒板がかけられ、備え付けのロッカーや暖房器具が残っていた。そして授業で使う教材であろう道徳のCDが散乱していた。そして津波で流れてきたのか、5年前の期限である飲料の空き缶が落ちていた。
 
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廊下と教室を隔てるドアはなくなり、廊下と教室の境界線がわからないほどであった。どの場所も床は砂に汚れ、壁紙は剥げ落ち、天井も所々崩れ落ちていた。壁や天井はほとんど鉄筋コンクリートが向き出ている。児童用のトイレの中は大量の砂が流れており、これは窓が小さいために砂が残ったものだと思われる。給食室はほとんどの機材が流され、半開きになった戸棚から給食特有の銀色の鍋が数個顔を出し、思い寸胴用のコンロのみが広い広い給食室の中に残されていた。あの場の様子から学校が機能していた頃の様子をうかがい知ることはもう出来ないだろう。少なくとも私にはできなかった。
 
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給食室の窓から抜け外へ出ると、少し先に瓦礫の山が見えた。それは瓦礫の処分場で津波の被害を受けた地域では各地区に環境省の管轄で瓦礫を処分する施設があるそうだ。今回見たときは鉄の瓦礫等が積まれているだけであったが数年前までは、多くの瓦礫がこの地域全体に存在しており、現在ようやく更地になったのだという。我々から見ると復興からは程遠いように見えるかもしれないが、現地の方からすると大分進んでいるのだという。同じ事実であるにも関わらず、とらえ方に差が生まれるのはやはり現地で現状をずっと見てきた方々と、言ってしまえば外部から断片的に見てきた者との違いなのだろう。
そんな瓦礫の山が見えるところのすぐ横に体育館がある。見た目こそ、特段崩れていたりするわけではないが、中に入ってみると一遍、津波の傷跡がしっかりと残っていた。体育館の床は大きくへこみ陥没していたのだ。横山氏によると、これは引き波によってへこんでしまったそうだ。自然の驚異というものを改めて感じた。体育館を出て進むと昇降口が見えてくる。そして昇降口の横には展望台の様なものがあり、そこには時計がかけられていた。そしてその時計は午後3時37分頃で止まっていた。最大波が建物を襲い電気系統がダウンした時刻だという。確実にあの日から時間は止まっていたのだ。
 
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我々は再び校舎の中に入り、今度は2階へと上がっていった。二階へと続く会談は所々手すりが取れている。そして2階へ上がると最初に目についたのが学校の椅子に置かれた一冊のノートだ。このノートには様々な書き込みがあり、横山氏いわく立ち入り禁止の場所ゆえに本来ならば書くことも置くこともできないはずなのだが、何度も役場で回収しているにもかかわらず必ずまた置かれ書き込みがされるのだという。請戸小学校の二階は震災後、災害救助の拠点として自衛隊等が使っていたという。その為設備等は一回よりは幾分かましで、学校の原型をとどめていた。
 
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前記したノートのほかに、請戸小学校には大きく人々のメッセージが残されたものがある。それは教室にある黒板だ。この黒板は元々自衛隊が救助の際に伝言等に使っていたのだが、次第に被災地や被災者などを励ます応援メッセージが書き込まれるようになり、一般人の書き込みもされていくようになったという。現在この黒板は撤去し保存され町が保管しているそうだ。というのも、当初は応援メッセージだけの書き込みであったのだが次第に震災に直接的に関係のない政情のことや一方を非難する書き込みが目立つようになったためだという。私にはこうした行為を理解することはできない。誰かを励ますためのものをほかのことに利用するなど、個人的な主張で利用するのはいかがなものかと思う。
 
冒頭でも記した通り、状況の説明文が多く感情的な意見をあまり深く述べてきていないことについて、再度お許し願いたい。やはりどうしてもこの複雑な感情を表現することが難しくて難しくて仕方ないのだ。どうしても、「涙」や「怒り」「消失感」「懺悔の念」「恥ずかしさ」そして「自分たちが今平穏に暮らしていることの幸せ」等等を考えると、ありとあらゆる感情により、言葉にできなくなってしまうのだ。どうかお許しいただきたい。
今回我々を案内してくださった、横山さんは浪江町で生まれ育ち今なお、浪江町に就職している。役人として復興を担う者という以前に1人の被災者なのだ。しかし彼は決して悲観的な意見を述べることも、誰かのせいにすることもなく、ただ前向きにお話しされていた。もちろん氏の中でも様々な葛藤があったのだと思う。が、今は前を向いている。私にはこの葛藤がどれほどのものか察することすらできない。言葉が不適切かもしれないが、尊敬の念に値するような念すら抱いてしまう。
 
我々は生きてゆく中で様々な苦難や逆境に出会う。それは今回の震災のようにどうにもならないことかもしれない。しかし過去は変えることが出来ない。我々が変えることのできるのは未来だけなのだ。逆境に負けじと、負の感情にとらわれること無く、ただ只管に一心に前を向いて歩むことこそ逆境に打ち勝つことであり、未来を変えることにつながる。私は今回の福島での体験でそのことを学んだように思える。そしてこれはすべての人生における鍵の様なものなのではと。
 
ここまで書き終え、私の中には相変わらず感情がまとまり切れていない。しかしどこかすっきりしている。そして大きなものをつかめたような気がした。私はまた福島へ行きたいと思う。そして今回感じた事以上のことを学びたい。そしてその経験をさらに活かし人のために活動して行きたいと思うそれまでは今回の経験を最大限生かしていこう。そう深く思った。