福島にて

2016年9月21日

僕は2014年夏に岩手県久慈市から宮城県仙台市までの沿岸部を一度見に行ったことがある。その時は仙台までしか行かなかった。行けなかった。それは時間の問題もあったし、原発の問題もあった。
僕はその時にものすごい衝撃を受けた。崩れたままの建物、残った家の基礎、土地をかさ上げするために山を一つ削っていること、その削った土を運ぶためのトラックやベルトコンベヤーなど目に映るすべての光景に言葉を失った。
 
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僕が被災地を訪れてから2年。震災からは5年が経った、2016年3月。僕はもう一度被災地を訪れるチャンスを得ることができた。今度はあの日に行くことができなかった福島へ。
3月28日。東京駅鍛冶橋。スタディーツアーの参加者と一緒にバスに乗り込んだ。マイプロの九州組以外は知らない人だらけ。アウェーな感じがした。バスで自己紹介をした後、席が近かった横浜の人と話をすることができた。彼はナポリタンに詳しいらしく、ナポリタン学会というのにも入っているそうだ。ナポリタンについて話していると、そんなにナポリタンを食べたことないということがばれた。北九州に帰る前に神田神保町のさぼうるのナポリタンを食べて帰ろうと強く決意した。
こんなことをしているうちに福島についた。昼飯は時間がないというのに、フルコースで出た。トイレにも行きたかった僕は素早く食べて、トイレにピットインした。
二本松駅で福島市から参加する人を乗せて、バスは福島県浪江町に到着した。浪江町役場の横山さんの案内で浪江町を見て回った。
 
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まず請戸小学校に案内された。一階部分は津波に流され、二階部分は床上まで浸水したそうだ。一階部分の窓ガラスは割れ、教室と廊下の仕切りはなくなり、泥だらけのノートパソコンはそのまま積み上げられ、泥だらけの賞状や賞状を入れる筒、朝の会や帰りの会のやり方の紙などがすべてそのままにしてあった。教室にある時計はすべて同じ時間で止まっていた。その空間は3月11日から動いていなかった。
バスで移動する間も様々な震災の爪痕が僕の目に飛び込んできた。特に目についたのが、黒い袋に入れて数え切れないほど置いてある汚染土だ。いたるところに置いてある。その近くを車で通ったり、歩いたりする。汚染物質が日常に溶け込んでしまっている。
次は浪江駅前周辺を見学した。駅のロータリーに止まった二台のマイクロバス、傾いた商店、キオスクの変色した冷凍庫、商品が入ったまんまの冷蔵庫などここも時が止まったまんま。駅のホームを見ると今にも電車が来そうな気がした。
駅前の酒屋さんは缶ビール¥3980/24本なんていう看板があったので営業していたことが分かる。つい昨日まで営業していたような雰囲気だった。しかも、ビールの値段は安めだ。
2日目は南相馬ソーラーアグリパークで半谷さんから話を聞いた。2016枚のソーラーパネルで発電する施設だ。それだけでなく、野菜も育てている。野菜だけでなく、人も育てている。実際に半谷さんの支援もあって一人の高校生が、「地元が誤解されていることが悔しい」という気持ちから、高校生ふくしま食べる通信というのを創刊した。ガイヤの夜明けで紹介されたこともあり、北海道から沖縄まで現在約900人の読者がいるそうだ。ここでいただいた、ベーコントマトサンドはとてもおいしかったし、半谷さんの熱のこもった話も心に響いている。
そのあとは普通の主婦という久米さんの話を聞いた。半谷さんとは対照的でゆっくり一言ずつかみしめながらしゃべっていているような感じがした。東電の人と言い合ったりもしたけど無意味なことに気づいた。地元が好きなことに気づいた。そもそも東電の人が頑張って現状維持をしてもらわないと住めないということに気づいて、今では応援するようになったそうだ。
 
帰りのバスでは今回の旅で出会った仲間とたくさんの話をした。地元の話をしたり、友達の話をしたり…いろんな話で盛り上がった。盛り上がっているうちに東京についた。
 
今回の旅は被災地を現地の人の案内で見て回れたことだけでも大きい収穫なのに、最高の仲間に出会えることができました。できたら、二〇二〇年にでもまたみんなで被災地を見に行きたいです。みんなの成長と被災地の復興を見に。また逢う日まで…。

光京

都内在住の高3です。小説、短歌、漫画が好きです。

なな(寄稿者)