3.11から五年後の福島沿岸部で考える。

2016年9月16日

「3.11から5年後の福島沿岸部で考える。」という中高生向けのツアーで”浪江町・南相馬市”に視察に行ってきました。
一泊二日という短い期間の中で訪れた場所、伺った話の内容はとても濃く学んだことは多かったです。福島のこと、放射能のこと、地震や放射能で家を失った人たちのことニュースなどの二次情報でしか知ろうとしませんでした。
 
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今回自分自身で福島を見てきましたが、正直言葉にならないとはこのことだと思います。津波で崩れた小学校、更地になった場所や、危険区域となり誰も居なくなった街。衝撃が大きすぎて今でもうまく頭の中でまとまっていませんし言葉になりません。
 
道のあちこちにある検問、その横には「立ち入りには許可証が必要です」と。そんなものがあること自体、とても衝撃的でした。津波で流された小学校の体育館の床には大きな穴が。ガラスが割れ、天井が崩れ落ち、物が壊れている、卒業生からの黒板へのメッセージやロッカーの名前のシール。職員室にあった先生同士の連絡ノートなど・・・。
そこには5年前まで普通の生活が存在していたんだなと改めて思います。
 
避難区域となった街には今も取り残された家があります。玄関のところに傘立てがあったり、「ここにはまだ人が住んでるのでは?」と思うほど生活感があるのに「この街には誰もいないんだよ」と言われた時とっても胸が痛かったのを覚えています。そして今ではきれいに片付けられ更地となった広いところに昔はぎっしりと住宅があったということも、信じることができず胸が痛かったです。
住民の人はあの3.11の時、地震が起こって「発電所が爆発した。逃げないと。」と懸命に逃げたことでしょう。今まで安全だと思っていたものが爆発し、テレビやいろんな人から逃げてくださいと言われ、一時的な避難だと思っていたら5年経っても未だに帰ることができないなんて誰一人想像しなかったと思います。
ほとんどの人が”放射能”がどれだけ恐ろしいものなのかわからなかったと思うし、知らないからこそ余計恐ろしかったと思います。自分がもしその場にいたら恐怖で動けないと思います。
 
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福島に行く、ということは何かを自分がやらなくちゃ!と考えていたものの、正直答えは出ていません。
今回浪江町を案内していただいた役場の方に一緒に参加した高校生が聞きました。「自分たちが福島にきてなにをしたらいいかわからない」と。自分もその通りでした。
 
「ここに来たからといって何かしなくちゃ、という使命感は持たなくてもいいですよ。福島のことを知ろうとしてくれるだけで嬉しいです。」という横山さん。この答えに少しだけホッと胸をなでおろした自分がいます。
だからこそ、まず「何かをする」というより「自分の感じたことを共有したい」と考えます。このツアーをきっかけに福島や放射能のこと、福島県の良さなども調べ勉強していきます。
 
まだまだ除染作業は行われています。積み重ねられた汚染土保管場所が現在3%しかなく、残りの97%の汚染土の保管場所は未だに見つかっていません。しかし5年経った今、浪江町は避難指示解除に向けていろんな人がまちのあちこちで頑張っているおかげでまちの形を取り戻しつつあります。
福島の人は可哀想とか元気がないんだろうと思っている方が多いと思いますが、ほとんどの方が前向きにうごきだしています。
 
二日目にお会いした久米さんのお話は「私は普通の人です」という言葉から始まりました。それは、どういう意味か最初はわかりませんでしたが、久米さんにとってこの5年間いろいろなことがあったことが短い話の中でもよくわかり、その意味がとても衝撃でした。
久米さんは原子力発電所の反対運動に参加するなど、いろいろな取り組みをされてきたそうですが、そのせいで自分の体を壊したり、精神的にとても苦しかった時期があったそうです。自分たちの普通を奪った放射能という、見えない恐ろしいものに怒りを感じた人がほとんどではないでしょうか。
 
同じく二日目。私たちは南相馬ソーラー・アグリパークへと行きました。代表の半谷さんは南相馬市出身で、震災後支援物資を届けるボランティアをしていました。そんな時ある方から「地元の子どもたちのための施設を作って欲しい」そんな声を聞いて南相馬ソーラー・アグリパークをつくったそうです。
太陽光発電や水力発電を通した体験施設では水力発電体験のブースではとことん電気を作ることの大変さを実感しました。
その他にも、半谷さんの目的の実現のためにどうすればいいか。など経験豊富な半谷さんだからこそのことも教えていただけました。
半谷さんの元で勉強し「福島の野菜の安全さを伝える」ために、農家の人を取材したり、福島野菜を使ったレシピなどをまとめた情報誌を発行している高校生たち。
今では全国から850人の方が登録されているそうです。そんな福島のベーコン,トマトを使ったBTサンドを頂きました。このトマトはとっても甘いのよーと職員の方が調理してくれました。
地元のパン屋さんの焼きたての柔らかパンにはさんで食べます。とっても美味しかったです。
 
この旅を通して学んだこと、感じたことはたくさんあります。初めて自分の目・耳・足で感じたことは言葉に出来ないことも多く、そして地元の方以外にも全国から福島を支えるためにたくさんの方が頑張っていることを知りました。NPO活動をするため移住された方、全国から交代で福島に来て見守る警察の方、工事の方々。
僕はきっと福島の今を知ること、全国のスーパーに少しずつ並んできている福島産ブランドの野菜は厳しい検査を通った上に並んでいる野菜なので、その野菜を少し意識して買ってみる、それだけで福島を応援することになると考えています。
 
しかし、今回お話を聞いた方は一部の方でしか過ぎないということを忘れてはいけません。僕の思う「復興」は元の街に戻ることだと思っていましたが、現地の人が思う「復興」はもっと前向きなものでした。
この震災で起きたこの悲しみを忘れない。日本は地震国ですし次はどこで起きどれだけの人が被害に合うかわかりません。
福島ではありませんが、「釜石の奇跡」というお話の中で、こどもたちの防災訓練の成果が「津波はここまでこない」という大人たちを説得して、ほとんどの人が高台に逃げた結果、被害は99.8%だったという「津波てんでんこ」の教えの正しさ。もしものときに備えて避難訓練は本当に大事なものだと思います。
 
いつ、何が起きても良いように地元の防災訓練にもしっかり参加したいと思います。そのことはきっと自分以外にも少しの勇気で周りの人たちも救えると思います。

もも

横浜生まれの横浜育ちの高校2年生。青春基地の他、U-19のためのまち「ミニヨコハマシティ」や、 中高生がまちづくりの現場で地域の活性を大人と一緒に目指していく「特命こども地域アクター」に参加しています。