2016年に大ヒットを飛ばし、興行収入200億円を突破して邦画歴代2位に躍り出た映画「君の名は。」は2014年に社会現象化した「アナと雪の女王」を越えるペースで観客動員を積み上げている。
私は2016年の秋、公開3日での興行収入が12億円を超えたと聞いて、すぐに鑑賞し、ヒットの要因の検証を始めた。そして、「君の名は。」がヒットした要因を大きく3つに分類した。
1:日本的感性を盛り込んだストーリー
2:適切な情報管理
3:若者が絡んだ拡散
この3点である。
ここに、私が15回の鑑賞と4ヶ月の時間をかけて分析した結果を、記してみたい。
日本的感性を盛り込んだストーリー
「徒然草」や「平家物語」の冒頭などのように、日本人には「無常観」と呼ばれる精神的基盤が存在する。明治時代以降に惹起したナショナリズムの高まりと教育の拡充によって、桜のように散ることが美徳とされて国民全体に広がっていった。時代は変わって平成となったものの、「君の名は。」にも、このような「儚さ故に美しい」という感性を下敷きにしたストーリーがふんだんに織り込まれている。
端的に言ってしまえば、「君の名は。」は、自らの意志に反して消えていく、美しくも切ない当たり前のこと ―ある種の無常― を、何とか取り戻そうとする物語である。主人公たちは、無常がもたらす不条理を、どうにかして克服しようとしていく。記憶が消えていく。スマホの大切なメッセージが、今まであった町が、一瞬にして蒸発する。物語の中で重要語として登場する「ムスビ」も、人や時間など、様々な事象における偶然の出会いや別れを総合する言葉である。
現実の急速な流転に、映画の言葉を借りれば「うつくしく、もがく」主人公たちの必死な姿が、「君の名は。」という作品に神話性を与え、若者たちに広がる共感によって「語りたい物語」となっていく。なぜなら、非正規雇用の拡大や政治の停滞、さらには東日本大震災などの自然災害が、将来の長い日本人達に、先の見えない不安をもたらしているからである。逆に言えば、将来に一点の曇りもない人であれば、共感の度合いが小さいのかもしれない。その意味で、「君の名は。」の大ヒットは、将来を見通せない若人たちが星の数ほどいることの表れとも捉えられるのではないだろうか。
適切な情報管理
ただ、いくら「共感を呼んだ」とはいえ、ストーリーの内容だけで見れば、「君の名は。」という映画に特段の真新しさはない、というのが一般の見方だろう。頻繁なタイムスリップに端を発するラブストーリーは「時をかける少女(細田守、2006)」でアニメ化済みであるし、災害に絡めた映画は「日常を失う」意味で戦争映画などと同じ要素を持つので、「この世界の片隅に(片淵須直、2016)」などに取って代わられてもおかしくない。
ある意味、鉄板ネタともいえる物語が、社会現象を巻き起こした理由は、情報の管理が秀逸であったことにある。107分間に及ぶ映像の中のみならず、観客を引きつけていく仕掛けが、様々なところに見られている。
この映画に関して実写映画でもよかったのではないか、という意見がある。しかし、「君の名は。」に関しては、アニメーションでなければ成立し得なかった映画と言えるだろう。なぜなら、意図的な情報量操作が特性となっている作品を実写で制作する場合、「撮り直し」の難しさが最大の障壁となるからである。ここでは、アニメーションと実写の特性を比較しながら論じていきたい。
第一のポイントは、アニメーションの粗放的映像である。新海誠監督は、過去作の「ほしのこえ」から「言の葉の庭」に至るまで、光を効果的に使い、風景を写実的に描く作業に注力してきた。今回の「君の名は。」は、製作期間が短かったこともあってクオリティーは落ちていると監督自身も公言しているものの、背景画が高い評価を得ている。新宿駅周辺の描写や、東京を俯瞰した映像などは、いわゆる「聖地巡礼」が発生するほどのクオリティーであった。
このような描写を実写で行うとどうなるだろう。写真などのように、レンズを通して実際の風景を映像にしていくと、細部までくっきりと描ききった動画を制作できる。映像編集ソフトによって、特殊効果も追加できる。しかし、現実を映しきってしまう特性故に、具体性に富んだ作品となる。できるだけきれいな景色を切り取ろうとしても、映像にうつり込む雑多な要素を排除できないのである。
一方、アニメーションは、現実の美しい部分のみを切り取って完成度を高め、観客に提示できる。さらに、粗放的なメディアを前にすると、観客は自らの記憶を引っ張りだし、情報を補足して理解する。「おふくろの味」などに代表されるが、記憶は往々にして美化されている。以上の理由により、IMAXでも上映される「君の名は。」においては、ただでさえ過剰に作り込まれている情景描写が、より美しく感じられるのである。
第二のポイントは、人物表現の作り込みである。もちろん、実写映像では、役者個々人の外見や声に左右されるため、監督側が意図して作り込むのは容易ではない。キャラクターに関する表現を、かなりの程度思うままに操作できるのは、アニメーションならではの特性である。
新海監督作品では、ほかのアニメーションと比較すると人物描写が弱く、唯一の弱点と言われてきた。彼自身が風景の描写に力点を置いてきたこともあり、キャラクターのスペシャリストを伴っておらず、強い表現ができなかったのである。
しかし、今作から採用された製作委員会制を利用して、プロデューサーの川村元気氏が強力な助っ人達を参画させた。「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」など数々のヒット作を生み出してきた田中将賀氏と、「千と千尋の神隠し」「思い出のマーニー」などジブリ作品を担当してきた安藤雅司氏が、キャラクター設定と作画監督にそれぞれ入り、人物表現のブラッシュアップを図ったのである。目線の操作や小物の設定など、様々な表現に磨きがかかった上、手法が多様化した。感情の動きを風景に仮託する従来のスタイルをそのままに、情報量の増大に成功したのである。
さらに、第三のポイントは、正確な時間軸の管理である。実写映画では、実際に撮影を行ってから、音楽を合わせていく。「この尺がちょっと短いから、撮り直しましょう」という勇気ある監督は、多くの時間や労力を無駄にすることになる。
一方「君の名は。」では、物語の盛り上がりに合わせた映像調整が柔軟に行われた。RADWIMPSから届いた楽曲とのシンクロを重視し、アフレコ後も含めてアニメの差し替えや追加も厭わなかった。また、新しい映像編集ソフト「Storyboard Pro」を導入し、三つのシステムを併用していた「言の葉の庭」と比較しても細かい調整が容易になった。その結果、4曲の主題歌も含めて、映像に大量の要素を盛り込めるようになった。大量の情報が一度に注入される映像は、予備校で行われている高速映像授業のように、観客の集中を引き出す結果となった。
さらに、情報量に極端な緩急をつけて、ストーリー理解のタイミングを操作し、感動へと結びつけた。例えば、喪失を暗示する役割を果たす、先輩とのデートシーンは1カット当たり6秒を費やしているのに対し、喪失を現実に克服するエンディングシーンでは3秒で、感情の昂ぶりを如実に表している。
また、以上3つのポイントに見られる一貫した情報過多状況は、二度見、三度見を助長した。極端な興行収入の伸びは、見落とした情報を拾い、背後のストーリーを探るファンたちの動きを如実に表している。このように、今までにない要素を構造に取り込んだ「君の名は。」は、2016年に公開された数あるアニメーション映画の中で、ウランガラスのような美しい異彩を放ったのである。
若者が絡んだ拡散
「君の名は。」は、以上に記したような特徴があり、これらが驚異的なブームへの要因となったことは疑いようもない。しかし、ヒットは観客が鑑賞してこそ生まれるものである。であるから、東宝の勝負作でもなかったこの映画が、1500万人の衆目にふれる作品となった理由は、なんと言っても若者が持つ拡散力にあるのではないだろうか。マーケティングを正確に行い、広告を殆ど出さずに巷間への浸透を図ったのである。
2年前に制作を開始した時には考えられていなかっただろうが、「君の名は。」のターゲット層は10~20代の若者たちである。彼らの多くが使うソーシャルネットワークサービス(SNS)の拡散力に目をつけた製作委員会は、「#君の名は」を作るなどして、インターネット上で感想投稿キャンペーンを行った。さらに、楽曲を担当したRADWIMPSの支持層が、見事に顧客の中心と重なった。
以上にあげた要素の帰結として、映画公開初日にミュージックステーションで披露された「前前前世」とともにツイート数が急増。12万件以上のつぶやきが確認された。以後は感想関連のツイートが増えていき、公開3日目の8月28日には15万件以上が投稿された。
また、感想を学校などで共有したことで、公開1週目には9億円だった週末興収が、2週目には11億円へジャンプアップ。若い世代が加勢した情報の拡散が、まざまざと裏付けられた。「君の名は。」は、今後の映画マーケティングを変革するであろう、効果的な宣伝の新手法を確立したのである。
以上のように、「君の名は。」は様々な要素を組み合わせ、革新的な興行を達成した。作品自体に見られるクオリティーの高さも然ることながら、驚異的なヒットの影には、また多くの戦略と人々の共感があったことは想像に難くない。北米公開も4月に控え、まだまだ世界中に広がっていくであろうこの映画を、見ない手は無いのではなかろうか。少なくとも、今世界に羽ばたこうとしている社会現象の行く末を、暖かく見守っていきたいと、そう願う。
1月24日、米アカデミー賞のノミネート作品が発表され、「君の名は。」は選外となった。12月に限定上映を行い、無理矢理ノミネート条件を満たした本作であったが、600人ほどいる審査員の評価は得られなかった。イノベーションを達成し、他の映画と一線を画す作品である故に、全世界的な上映が行われていない中でのオスカー候補入りは確実に至難の業であった。マーケティング戦略を駆使して興行収入を積み上げてきた東宝にとって、唯一の失策とも捉えられる。
ただ、作品としても、日本語の多用が大きな障壁となった。字幕をつけるにしろ、台詞と歌詞が重なるシーンでは、情報量が多すぎて混乱を招くであろう。歌詞の字幕はあきらめて、BGMとして流す選択肢もあるが、それでは劇伴音楽が主人公として立たず、逆に情報量が不足してしまう。
そこで、これから北米で公開される英語歌詞版の「君の名は。」に期待したい。主題歌のキャラクター性を確実に取り込み、日本と同じく情報過多状況を作られれば、本来の作品へと近づいていく。日本を震撼させたこの映画が最適化をもって北米に上陸すれば、情勢が不安定になる社会の中で、高い評価を得られる可能性が高い。今後の展開は、日本映画の海外興業に道を開くかも知れない、重要な道標となるといえる。